週末の朝にクオリア日記をまとめて読むことのこの上ない幸せたるやもう。

今の日本人の大いなる誤解は、
 独創性というのが刹那的な感性で
実現できる、と思っているところだ、

過去のさまざまな作品のアーカイヴという
「safe base」が脳の中にあって、
はじめて、創造性というexploration
ができる。

別に歴史も教養もなくて生きていけるんだ、
というオバカな雰囲気を日本の文化の中に
植え付けてしまったんじゃないか。

対立的)な
姿勢でテロの根本原因が消せる、
と思っているところが、
 アメリカのブッシュ政権の浅はかさというか、
もっとはっきり言えば、非科学的なところだ

学生の頃は、

「今すぐ全てを!」
とか、
「これは本当の生活ではない、本当の
生活は、どこか他のところにある!」
とか、
「こんなに弛緩した生活じゃなくて、
一瞬一瞬が生きることの緊張感に満ちている
ような、そんな生活がどこかにあって、
オレはそのような生活になるべく早く
飛び込まなくてはいけないんだ!」
と思ったものだった。

 今になって考えてみれば、
あれは全て誤解だったことがわかる。
 日常の中にこそ普遍があり、
普遍は日常の中にしか現れない。
 だから、自分の感性に誠実に、
毎日を生きていれば、
 それで十分だし、
 それ以上のなにものもない。

 ニューエージの本とかで、
神秘体験などをやたらと特権化して
書いているものがあるけれども、
 私に言わせれば、ああいうのも
恐るべき誤解に基づいて
書かれている。
 舌に載せたチョコレートの味が、
既に永遠である。
 朝のコーヒーがぷしゅぷしゅ蒸気を
吹き出す音が、
 そのまま天上である。
 世界の中には、それに本気で寄り添えば
永遠のよろこびと深みが現れるものたち
に満ちあふれている。

 日常が退屈なんて、とんでもない。

 と、私は学生だった頃の私に
言ってやりたいとは思うけれども、
 そういう発言を聞いたら、
学生だった頃の私は、
 「何をこいつ弛緩したことを
言っているんだ」
と思うかもしれない。
 過去の自分は他者である。
 記憶によって、かぼそくつながっては
いるが、
 異質な他者である。


そうだ!そうだ!その通りだ、(バカだからうまく言えない)おれの思っていた事をいつも言ってくれる!ウオオオ、といった感じに茂木健一郎氏の文章を読んでいるといつも思う。そしてあー、分かっちゃったぞ、分かっちゃぞ、という快感が訪れる。ここで茂木氏が書いているような感覚を手に入れたように錯覚するからだ。そしてそれはそれこそ言葉にできないクオリアを逃すことにもなるので諸手をあげて絶賛はできないのだけども。も。こういった文章たちが素晴らしく脳を刺激してくれているのは間違いないのです。